未知の世界

メモに使ってます

個人と属性の分離可能性について

 差別の問題を考える上で《属性》という概念がよく用いられます。よく「変更困難な属性」なんて言われ方をしますが、じゃあ宗教や思想はどうなるのかという話もあり、また、民族であっても混血や多重国籍などはどうなるのかとか、或いは怪我や病気で負った障害も《属性》とされるので、なかなかややこしい概念です。
 こうした《属性》と《個人》の関係に関して発せられたk3氏による以下の一連のツイートに対してレスつけるつもりで下書きしたのが膨れ上がってしまったので、ブログ経由で返信する形で記録します。












KangKim氏が下記の返信をされています。

 結論としては私も「分けることができる人もいるし、できない人もいる」「分けることができる《属性》もあるし、できない《属性》もある」ことになるんですが、そこらへんをもう少しわかる範囲で詳細を書き出してみようと思います。
 本来的には個々に小論を立てて批判すべき問題をすっとばして概論だけ立ててしまったので、批判次第では全体が崩れる可能性がある点に留意願います(露骨な防衛線)


 まず《わたし》と《属性》の分離可能性を考える上では、《属性》という概念自体が機能的帰納的に、つまり結果から逆算して定義される語なので、質的な統一性はない点に注意が必要であると思います。
 機能というのは、言葉を選ばずに書くと、「人間を社会的に分類する機能」ですね。その特徴が制度的、経済的、肉体的といった質には無頓着です。一方で《わたし》との分離可能性は、その質や量や密度によるわけです。従って、少なくとも質的には分けて考える必要があるわけです。

 《属性》といったとき、まず《集合概念》と《特徴概念》があるとします。「髪がある」「髪がない」は《特徴概念》ですが「髪がある人々」「髪がない人々」は《集合概念》です。一般論として語られる殆どの場合の《属性》は《集合概念》です。
 しかし、いじめの原因や理由に用いられるのは、運動音痴のような、むしろ当該集団からユニークな《特徴概念》である場合が多いように思います。厳密には外国人のように《相違性》がわかりやすい場合の方がいじめに及びやすく、そうした《相違性》が顕著でない場合に《特徴概念》を《相違》として「用いられ」ているというべきなんでしょうが、そこは別の話になるのでパスします。問題はユニークな《相違》としての《特徴概念》と、そうした《特徴概念》の《類似性》で結合されマジョリティから括りだされる《集合概念》を分けようとしていますので別論とします。
 ここで、「《相違性》で括りだされ、《類似性》で結合せらるる」という《集合概念》の形成過程の特徴に留意します。
 「よくしゃべる人」「暗い人」がなぜ《属性》たり得ないのかという問題に簡単ながら説明を与えると思います。

 通常、人間が集合(カテゴリ)を考えるときは《類似性》で境界を引きますが、その《類似性》(逆に言えば《相違性》)によって《集合概念》の質も変化します。民族や宗教は、外見的特徴よりも抽象的と言えるでしょう。日本に見られる問題として、成長過程の多くにおいて外見と使用言語に強い関連がある環境に生活し生育した人が多数を占めている点も差別に強く関わっているわけですが(教養や貧富と関連している国や地域も似た問題と思われます)、たぶん《属性》を考えるにあたってこの《集合概念》を真面目に考えようとすると、そうした周縁の社会情勢も概念形成に強く関連するものと思われます。

 第1の関係性として、恐らくこの《相違性》の強度と、《類似性》の強度が、《個人》と《属性》の心理的であったり人格的であったりする範囲における結合強度になるのであろうと思われます。
 つまり、認知不可能な程度に《相違性》が小さかったり、《類似性》が弱ければ、《属性》たりえないということです。また、この《相違性》というのは社会的障害が強いとより《属性》として認知されやすいようです。ということは、その間のグレーゾーンでは、《わたし》から分離可能な《属性》が存在し得ると思われます。
 もちろん、制度的にも経済的にも分離可能でなければなりません。また、グレーゾーン境界について「分離不可能であるがゆえに《属性》である」という定義の方が妥当かもしれませんが、そこまではまだ考察していません。


 次にもう少し進めて、《個人》と《人間》との対立を考えます。

 個人から切り離せるか切り離せないかについて、身体性などの具体的特徴は目視に代表される認知に直接関わるものであり、一見して《相違》を感じさせるものであるので、質的に分離不可能な《属性》といえそうです。*1
 逆に、個人から分離不可能な《属性》として「性」がありますが、こちらは逆にその《相違性》を明瞭具体的に感じさせないがためにマイノリティが困難に直面する特徴があると聞き及びます。身体的《属性》とは明確に性質を異にするものです。むしろ同じ困難を抱える人同士がコミュニケートすることによってはじめて《特徴概念》を獲得し、《集合概念》を形成することによって性的マイノリティとしての自我を形成し自己を発見できる場合すらあるようです。

 更に、抽象的な段階においては《集合概念》にも複数あります。その代表的なひとつは例えば「朝鮮人」は「日本人」「韓国人」「中国人」といった対置概念のある集合です。仮にこれを《三項的集合概念》*2とすると、その文脈で「人間」といった場合は、対置概念のない全体集合であるので《純粋全体概念》であると言えます。もちろん、生物学的に哺乳類間、或いは動物間で比較する場合には《三項的集合概念》になりますが、倫理規範で獣・人間と対置する場合にはこれは種というより背反集合として用いられているので、質的に異なるものです。《二項的全体概念》と呼ぶのが妥当かと思います。この《二項的全体概念》は「我々」と「我々でないもの」という形式を基礎として用いられます。《純粋全体概念》は端的に「すべて」です。
 従って、《純粋全体概念》としての「人間」は、受精卵がどうとか細かいことは考えずに「すべて」の人間という素朴な主観的概念です。しかし「人間は歩く」「私は歩けない」といった場合の「人間」は境界のあり方として《二項的全体概念》として定義されており*3、その境界が主観的《類似性》によって形成されているために、そうした《相違性》で括りだされた《個》と《人間》との対立がもたらされるわけです。これは「人間」という概念が原理的に対立させるわけではなく、「その「人間」という概念が対立せらるるべく定義された《二項的全体概念》である」からです。従って、「個人の尊厳」を言いたい場合には、《純粋全体概念》としての「人間」を取ればいいわけで、仮に境界性を明瞭にするために二項的対立的に扱うにしても受精卵から扱うか出産時から扱うかといった生物学的現象における認知境界を論じればよい、というよりそのように論じるほかなくなるわけです。
 つまり、そうした「人でなし」が語り得る「人間」は、集合の範囲として全集合である《純粋全体概念》よりも縮小された集合としての《二項的全体概念》であって、拡張されているのではなく限定されていると考えるのが妥当と思われます。
 厳密にはその場合でも「個と全は対立する」という意味で、つまり《個性》はユニーク性の概念であり即ち《相違性》である一方、《人間》は同一性の概念つまり《類似性》である以上は対立する運命にありますが、それは《属性》とは異なる次元における対立です。なぜならば《属性》は三項的であれ二項的であれ限定的な《集合概念》ですが、ここでいう《人間》は《集合概念》としての対立項を持たない一項的な《純粋全体概念》であるためです。そして、k3氏が大学で憲法の講師から聞いたのは恐らく全と個の対立という意味だろうと考えています。
 従って、私の見解としては(法的には不明ですが)《個人主義》において《属性》は「系外、システム外であり、議論の俎上にないので、捨象も前提もしていない」のではないかと思います。

 以上が第2の関係性、《属性》に用いられる《集合概念》の類型に関する私見です。
 更に言うと、《個》と《全》を否定的に媒介する《種》とか《類》という概念が《属性》の淵源であるような気がしていたりしますが、私もまだいまいちよくわかってません。


 ここから《個人》と《属性》の結合強度について考えますが、《自我》とか《自己》の形成などに踏み込むので、ここまでより更に雑な話になります。

 個人から物理的に切り離し得る抽象的な《属性》について考えた場合、その《属性》と《個人》の結合強度は「個の自覚にまつわる認識において用いられた程度」および「社会通念上において生活に求められる程度」によって軽重があるという方向になると思います。

 「私とは何か」というと自我(ego)の形成であるとか自己(self)の確立であるとかにありますが、このうち《個》としての意識の分化は《族》に対して否定的に対峙することで形成されると考えます。詳しくは「我の形成によりその差異によって汝を認知する」方向と「汝の認知によって(その剰余として)我を形成する」方向とそれぞれでややこしい話があるようですが*4、両者が同時的に進行することで《自我》が形成される認識でいいと思います。
 また、《族》に否定的に対峙し《自己》を確立する形成と、《族》に肯定的に従属し《自己》を《族》の一部として認知する形成と、こちらも両方がありますが、この2つの方向は互いに対立し強弱のある関係で、人、家庭、文化によって異なるものと思われます。雑な対比をすれば、西洋的世界観では《族》と強く否定的に対立した《自己》が連帯することで「社会」を形成する方向にある個人主義世界観ですが、一方で《族》に強く肯定的に従属し《自己》を《族》の一部として認知する傾向が中国的族社会や旧日本的な企業や組織への忠誠帰属意識である、と考えるとわかりやすいかと思います。
 ここで、《属性》の自覚や《自我》や《自己》との結びつきの強度と、否定的関係や肯定的関係のバランスは無関係という点に注意が必要です。こうした《自我》や《自己》の経た過程における強度と期間が、強度に関係しているのではないかと考えています。
 というのは、これらの形成時に《属性》への自覚を求められた強さ、たとえば社会的環境による外圧や、自尊心への刺激や訴求による《属性》への自覚要請の強さ、およびそれらの影響にさらされた期間が、《属性》と《わたし》との結びつきの強さに繋がっているのではないかという仮定です。
 ただし、その関係した《族》が《二項的全体概念》として自覚せられていたならば、それは容易に《属性》へと発展し、結合の強度を増すでしょう。

 逆に、そうした要請を一切受けずに形成された《自我》《自己》をもつ人は、《属性》を横に置いて《わたし》を語り得るし、《属性》を容易に他人事にできるのではないかと思うわけです。マジョリティが《属性》に無自覚という話は、要するに例えば「日本人」という集合を《純粋全体概念》として使用し得る社会に住んでいるからではなかろうかと考え方ができそうです。


 以上を概観すると、物理的に分離不可能だが社会制度によって「わたしを語る」上では分離可能になる《属性》もありそうです。例えば血液型がそうです。ある血液型であることによって就職、居住、選挙、移動が制限される社会制度であれば、《わたし》を語る上である血液型である《属性》は分離不可能になる場合が殆どでしょう。
 個人主義における《平等》とは、今現在の血液型に対するそれと同様にはたらきかけ実現すべきものであり、《属性》を捨象しているとは言えないのではないでしょうか。ただし、自分の血液型をばかにされるとむっとする人は多かろうと思えるので、やはり不可分なのかもしれません。では肩書は?趣味は?など、個別に詳細を突き詰めていかないと明快にはならなさそうです。
 それ以前に、ここでは主に「《わたし》を語る上でその《属性》を語る必要がない」状態を考慮していますが、実のところ障害や出生等の事実関係について「《わたし》と区別する」とはどういう状態をさすのか?という点こそ掘り下げなければならないわけですが。

 また、「価値」について詳細は稿を改めようと思いますが、「社会的な価値」つまり「ある集合体における価値の正負」を考える際は、「どの社会の価値を考えているか」を明確にしないと、インチとメートルの数字を比べる羽目になるのではないでしょうか。ある人の行為について、家庭での価値と、職掌上の価値と、社会的な価値とが、互いに相反する場合はあります。学校という比較的閉じた社会に関して言えば、貧困者等の「目に見える相違性」から保護する平等の目的がある点を考慮した上で、当該個人における価値、教職員の管理上の個人的価値を考えなければならないのではないでしょうか。


ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか

ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか

ヘイト・スピーチとは何か (岩波新書)

ヘイト・スピーチとは何か (岩波新書)

パース著作集―Peirce 1839‐1914 (1)

パース著作集―Peirce 1839‐1914 (1)

種の論理――田辺元哲学選I (岩波文庫)

種の論理――田辺元哲学選I (岩波文庫)

*1:こうした《特徴概念》の形成と《相違性》の質に関しては、今後画像認識にまつわる相似性、《類》の定義によって精緻になっていくでしょう。

*2:C.S.パースの三分法を意識しています。雑に言うと「我」「汝」「その他」という三項関係の展開で成立する抽象概念ということです。二項的なものは、「我」と「汝」の対立概念です。

*3:かつてギリシャ・ローマにしろ江戸期にしろアパルトヘイトにしろ「人間」の範囲が現代に比べると極めて限定的だったような語意と近い気がしています。未だにそういう「人間なら」みたいな使われ方はちょくちょく見ます。

*4:その機序にドイツ観念論とフランス観念論の対立があるとか聞いたことがあるので興味があればそちらからがよろしいかと思います。