未知の世界

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興亡の世界史17 大清帝国と中華の混迷

 実家に帰っている間、何もする気が起きなくて母から勧められた本を読んでおりました。せっかく1冊読んできたので、紹介してみようと思います。

大清帝国と中華の混迷 (興亡の世界史)

大清帝国と中華の混迷 (興亡の世界史)

 私が読んだのはこちらですが、2018年1月12日に単行本が発売されるそうですね。 19世紀を通して清は西欧列強との関係をうまく構築することができず滅びますが、私はあのあたりの東アジア地域の混迷、清朝李氏朝鮮がどのように立ち遅れたためにああした「間違った対応」を続けてしまったのか、という点がよくわかりませんでした。
 また、「満州人が建てた国」ということは知っていても、それがどういうことか、いまいちピンときていませんでした。

 本書は外観的な政治史というより、そうした「清がその興亡において当時どういう観念、思想といったものを背景にしていたか」を描いています。単に政治史をなぞるだけではなく、動機を紐解いている点で興味深いのですが、あまりマニアックに深入りせず平易に描いてくれているので、読みやすい一書です。私の場合、歴史は全体的に苦手なので、政治史だけでも漠然としているんですが(笑)

 本書では清朝が西欧列強に対して混迷をきたした直接の原因を、清の為政者が「主権国家」という概念の輸入に失敗し、独立した国家間の交渉という外交の基本的な考え方と国際法の概念の理解が遅れたことに置いています。この理解を妨げたのが「華夷思想」であり、世界観であるという解題がされています。また、「華夷思想」に端を発する「中外一体」の考え方が、現在の中国ナショナリズムの源泉になっているところまで線を繋いでくれます。

 「華夷思想」とは、漢人の中華(夏)中原を中心に、物理的精神的文化的な距離が離れるにつれ、朝貢国、互市、化外と広がる世界観です。
 そこには「天朝」を中心とした「天下」および「それ以外の勢力」があるばかりで、つまり国家間という考え方が発生しなかったということです。清が西欧諸国と対峙したとき、「主権国家」という概念が理解できなかったことには、この背景があると著者はいいます。確かに「天下」と「夷狄(それ以外の勢力)」があって、夷狄は天下への帰依の程度によって「朝貢」「互市」「化外」に分けられる、そして「中華」はこれに漢字や儒教などの文化・文明を「教化する」ぐらいの世界観の中で、対等な国家関係を理解するのはとんでもないパラダイムシフトでしょう。
 特に「国境という概念がない」というのは、いや万里の長城なんやねんとも思いましたが、あれは要するに「漢人華夏」と「それ以外(化外)」を決める境界であって、「主権国家」同士が住み分ける「国境」とは違うんですね。同心円状に広がる世界観で、外に行くほど文明が未開になりバラバラで斉一性を失っていく世界観、どこかで見たような…西欧中心主義そっくりですね。オランダとの貿易がなければ江戸日本もこうなっていたかもしれません。いや、攘夷思想はこうなっていたのかも。
 西欧では地形が複雑で、西欧文化圏として立ち上がった時点で既に西欧同士で国境があったわけで、そういう意味ではもしかしたら戦国時代であれば「華夏思想」にも国境の概念があったのかもしれません。しかし食糧生産能力が向上して天下統一が成立してしまった以上、「対等の交渉」を理解することは難しくなっていたようです。

 それは、台湾での事件を「化外なので知らない」と対応してしまい、つまり未支配地域と宣言することになって日本に占領されてしまうこと、琉球や朝鮮を「朝貢国」のまま扱ったせいで「独立国」とされてしまい、結局日本の版図に取り込まれてしまう経緯にも如実にあらわれます。
 国際法にあった「領土」の考え方には「朝貢国」のような半独立半隷属の上下関係というものはなかったし、「天下なので王朝の範囲にはあるけど化外なので責任はとりませんよ」なんていう考え方も受け入れられなかったわけですね。
 常識の食い違いという点で、なんとなく生麦事件を思い出したりしました。


 また、時間感覚としても、秦以降、中原を支配する「各王朝」があり、各皇帝ごとの元号にあわせた年代があるばかりで、統一的に歴史を語る時間軸を持っていなかったといいます。

 この点で、日本はたまたま海洋国家としてオランダと交流する中で、西欧列強との本格的な接触がある前に国学が興り皇紀を「発明して」いたのは僥倖と言えて、そうした通史を持っていたことも西洋に互する前提条件のひとつだったようです。黄帝紀元(中国4千年)が発明されたのも、通史という西洋との常識のすりあわせ的な要求からであるようで、かつ皇紀を参考にしたとか(だから皇紀より古い)。
 ちなみに、脇道に逸れますが、こうした「〇〇より古い」という暦への拘りは、欧州における『聖書 vs. 世界史』という面白いお話がありまして。

聖書VS.世界史 (講談社現代新書)

聖書VS.世界史 (講談社現代新書)

 最初の創世紀元ローマ帝国から迫害されたユダヤ人が、相互に同じく記述できるとして受容を求めて言い出したところ、同じ手を使ったキリスト教徒によって4世紀ごろに成立しました。この時点でもカルデア人やエジプト人の古さは問題になっていたらしい。
 イエス紀元(西暦)は6世紀ごろに発生したが、以後殆ど使われなかったようです。この頃、創世紀元アブラハム紀元、オリンピア紀元などを併記するのが普通だったとか。しかしこれで「普遍史」なるものが発明されます。
 しかし16世紀ごろから、ヘロドトス翻訳等からエジプト史の古さのために危機を迎えたり、聖書の批判研究で揺らいだり、中国の各王朝史を足したら(黄帝紀元の計算は、実は宣教師が先にやっていた!)ノアの洪水とあわなかったりなど七転八倒した挙句、18世紀に至ってヴォルテールが「聖書に基づく普遍史」を切り捨てた「通俗世界史」の概念を提唱することで、現代的な「世界史」が端緒が開かれる――といった話が描かれています。
 渋川春海皇紀元年を求めたのが1677年、劉師培が黄帝紀元を発表したのが1903年と考えると感慨深いものがあります。

 いずれにせよ当時はまだ、一貫した時間軸を持っていることは、主権国家が持つべき世界観として重要だったらしいことが伺えます。


 清は満州ヌルハチが建てた王朝ですから、「華夷思想」で言えば「夷狄の王朝」になります。明において発展していた儒教朱子学の世界観では華夏はあくまで漢人による儒教漢字文化圏であったため、これは由々しき事態だったようです。儒教文化を引き継いだ清においてもこれを理由に満州人を蔑視する考え方が当然のごとく興ったようですが、雍正帝は当時流行したそうした思想家を呼び、自らを夷狄としてこれに反論、思想家は恐縮して以後満州人を積極的に擁護したということです。この時に現れたのが「中外一体」だそうです。

 清は満州だけでなく、清が興った折に清に協力したモンゴル、チベット、新疆も清は「藩部」としてその版図に入れていました。この頃は各々の文化や利益を配慮することで「ハーン」でもあり「転輪聖王」でもある「皇帝」という立場を確立していましたが、逆に「藩部」からすると「利益供与と独立性の担保があるから清を上位と認めよう」という動機づけがあったと説明しています。清の滅亡以降、中華民国中華人民共和国も、この藩部を領土として譲りませんでしたが、元藩部からすると利益も尊重も失われたのになぜ従属せねばならないのか、という現在の軋轢になるわけです。

 ここで面白いのが朝鮮で、明代に朱子学を発展させた朝貢国である朝鮮は、秀吉の朝鮮出兵の際に援軍を受けたことも併せて明にシンパシーを感じており、満州人を野蛮人と侮っていたため、清に朝貢はしていたものの内心の反発が続いていたという指摘です。清が興った際に明について大敗を喫しており、藩部に取り込まれることなく一定の距離を保っていたといいます。
 19世紀から20世紀にかけて日韓併合に至る混乱の動機がいまいちピンときていなかったのですが、こうした清、日本、ロシア、西欧諸国それぞれへの不信を天秤にかけた混乱の質が少しわかったように思います。

 主権国家への再編という大きな転換点を迎えた際に、「同盟者であるがゆえに独立の機会を逃した藩部」が中国ナショナリズムの不可分な一部にされてしまった一方、「屈辱的ながらも朝貢国という立場になったがゆえに」いちはやく主権国家への脱皮を果たしつつある日本に独立国と扱われ、植民化や代理戦争を経つつも独立を得るという「物語」を概観できました。

 ちなみにこのシリーズ、『スキタイと匈奴 遊牧の文明』も面白いそうですが『オスマン帝国500年の平和』にも食指が動いており、最終的に全部集めそう…ウゴゴ。