これまでわからなかったことを"わかる"のは楽しいものだが、わかったと思ったことが実はわかっていなかったと"わかる"のはなかなか難しい。そもそも、"わからないもの"がそこにあることに気付くこと自体が結構難しい。
人間の理解なんてものはオンオフで切り替えられるものでもないから、わかったようなわからないようなものの方が多いが、だからといってわからないで済まされることばかりでもないので、"今わかっている筈の範囲"を仮置きしながら生活しなければならないことも結構多い。
私にとって、民族だの差別だのバリアフリーだのというのは、そういう類の話だ。
"単一民族幻想を抱えた2つの国の間"で、どちらの単一民族にも属さない人間、つまり「日本籍の在日コリアン」としての生活の中で、本人は望まぬのに押し付けられる民族だの差別だのといった「生活する上で避けられなかった大小の棘」を筆写したのが本書だ。
- 作者: 金村詩恩
- 出版社/メーカー: ぶなのもり
- 発売日: 2017/12/19
- メディア: 単行本
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私が最初にそうした問題を知ったのは、たぶん手塚漫画だったと思う。そこで語られていた黒人差別は、まだメルヘンの物語だった。
空想が現実のものとして感じられたのは、アパルトヘイト展だろうと思う。腰から脚にかけて引き出しがついた引き延ばされた人間が描かれたうすら寒い色合いの油絵を見ながら、説明を読んだんだか母親に聞いたんだか、ひどいことをする連中がいるもんだという印象が、うっすら記憶に残っている。
以後、部落やアイヌ、セクシュアリティの問題を知るようになるが、どうやったってそれは歴史上の問題よりはわかりようがなかった。
2013年に新大久保で起きた在特会デモ、更にはお散歩と称した嫌がらせをyoutubeで見た時には確かに恐怖と理不尽を感じたし、2017年になってからは実際に川崎や御徒町で起きたヘイトデモを見物しに行ったりもした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E9%9F%93%E3%83%87%E3%83%A2
が、結局わかったのはそうした「現象」でしかなかった。もちろん実際に見なければわからないこともある。しかし、そうした暴力的な差別、差別的な暴力に晒された人々が感じたそれぞれの衝撃、切実な死活は、想像するほかない。
そして、その想像のきっかけになってくれるのが、本書だ。
ここには日常生活の合間にヘイトスピーチが割り込んできたさまが、わりとそのまま描かれている。
ヘイトスピーチに関して書かれた書籍は他にもあるが、たいていが大上段に構えて「こんな被害を受けたんだー!」「なんだとー、けしからん!」といったもので、なかなか「生活臭」がなくてメルヘンになりやすいのだが、本書にはそうした構えが無い。
どちらかというと積極的にキムチを漬け込んだり焼き肉を焼いたりする生活臭を嗅がせにきているところがある。
それがいい。
性差別にしろ民族差別にしろこうした問題について、少なくとも私の場合、どこまでいっても当事者ではない。
バリアフリーの設計をしたければ、障碍者に話を聞かなければ仕様からして始まらない。
いくら観察をして本を読んだところで、当事者に話を聞かなければ、右利きの私には左利きの人にも使いやすいデザインはできない。
後天性障碍ならまだ将来自分がなる可能性はあるかもしれないし、車椅子なら体験のしようもあるが、生まれでどうこうというなら本人にもどうしようもないのだ。差別する人間がいる以上は差別被害者は差別からはなかなか逃げられないが、かと言って差別されていない人間が被害者と同化しようとしたって、それは土台無理だという点は何度強調してもしすぎることはないように思う。
だが、わからないと言って背を向けてしまっていい問題でもない。
差別意識をこじらせた「変な人たち」が路上で汚い言葉を吐き散らかしているのに警察はこれを取り締まれないし、取り締まれる法律も作れていない。で、それを止めようとしてこれまた「変な人たち」が群がっている。ぱっと見は沖縄の基地もそんなようなものだ。
ああいうのを「異常な人たちによる異常な風景」として他人事にする方が簡単ではあるし、たいがい自分のことで手一杯だからそれで終わらせるもんだろう。
そうして背を向けてきたから女性差別が今でも問題になるのだし、ユダヤ人が連れて行かれるまで気付かなかったのではないかとも思う。いじめが自殺に至るのは、まさにそういう構造だ。わからないなりに、自分のことで手一杯なりに、できる範囲で何かはしなければ、隣人を見殺しにするようなものだ。通勤中だからといって誰も怪我人に手を貸さない社会がまともだとは私には思えない。
そもそも路上で変な人たちが変なことをやり始める前段階がある筈で、そうした色々を看過してきた結果が、未だにSNSでもBBSでも何事か凶悪事件が発生すると特定のカテゴリの人間が犯人だとする、意味もなく人を傷つける(本当に何の意味もない)発言がゴロゴロしている現状なんだろう。
とはいえ、看過してきたのだと偉そうにと書いてはいるが、何を看過してきたのかは正直よくわからない。
私自身が子供の頃から「変な人」と見られ続けてきたし実際客観的に思い返しても「変な人」だったという意味ではマイノリティだったかもしれないが、ステータス画面のどこを見ても日本では何の特徴もないマジョリティにしか見えないので、差別された記憶はてんでない。差別されるということがどういうことか、その意味することも体感していない。
それだけでなく、これまでそれとは知らずに差別的な発言や行為をしてきたし、たぶん今でも無意識にやっていることはあるだろうと思う。これからも言われるまでわからなかったりしそうだ。言われたら改めなければならない。
本書は、私がそうやって看過してきたもののうちのいくつか、たぶん私の日常生活の隣の家で起きていたことでできている。
わからないけど、わからないなりに考えなければならない日常の問題だ。
この本がきっかけになって、隣の日常の問題にも興味が振り向けられる世の中になれば、ほんの少しだけ日常が暮らしやすくなるかもしれない。
自分の場合、著者のいう"エッジ"のような境界線というものは自他境界ぐらいしかないし、むしろ例えば「日本人は(みんな)こうだ」とか「人間は(みんな)こうだ」とか言われても、「どうせその『みんな』に私は入っていないんでしょ」ぐらいにしか思わない(そして実際入ってない)ので、民族だの郷土だのといったことはそもそも出発点からよくわからない。
だからこそ、こうした「エッジ」から見た風景というのは、これはこれで独特のものがあるなあと味わい深く読ませてもらった。
やはり"境界(へり)"は何度でもおいしい。 ←今回はこれが書きたかっただけです(笑)
(他にも色々下書きしましたが、まとまらなかったので、まとまったらまた書きます)